ドキュメンタリー

ジョンFケネディ大統領暗殺事件ウォーレン報告書の矛盾と有力説とは

1961年1月20日、43歳という史上最年少の若さで、アメリカ大統領に就任した、ジョン・F・ケネディ。

「今問われるのは、祖国があなたのために、何を成すのかではなく、あなたが祖国のため、何を成すかなのです。(大統領就任演説より)

若さと自身に溢れ、彗星のごとく登場した彼は、米ソ核戦争の恐怖と、白人と黒人の対立という激動の世代を背負い、アメリカの希望の星として人々の頭上に輝いた。

しかし1963年11月22日午後12時30分、テキサス州ダラスのパレード中に暗殺。在職日数1037年にして、彼はその輝きの絶頂で消えしまう。

この事件は、20世紀最大の悪夢と言われている。

目 次

JFK暗殺事件|矛盾だらけのウォーレン報告書

JFK暗殺から、1週間後に発足された調査機関「ウォーレン委員会」による調査は、わずか10ヵ月で終了

その報告書の中身についての矛盾や疑問が多く指摘されている。

報告書によると、JFKの暗殺は「リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯」としている。

オズワルドは逮捕されてから2日後、刑務所へ移送されるところを、ジャック・ルビーによって暗殺されているため、本人の口から、その真相は聞くことはできていない。

(ジャック・ルビーによるオズワルド暗殺の瞬間)

ウォーレン報告書①銃弾の謎

ウォーレン報告書の調査によると、犯行現場で薬きょうが3つ発見されていることから、ケネディを狙ったのは3発だと断定している。しかし報告書によると2発目の銃弾は、背中からJFKに命中し喉を抜け、その後S字を描いてコナリー知事の右肩を貫通、肋骨を砕いて外に抜け、手首を貫き、最後に左太ももに突き刺さるという不可思議な動きをしたことになる。更に不可解なのは、コナリー知事の体から見つかった2発目の銃弾は、ほとんど変形していない状態で見つかっているのだ。
JFK暗殺事件の2発目の銃弾

ウォーレン報告書②ライフルの謎

犯行に使われたのは、1940年のイタリア製ライフル「6.5ミリのカルカノM1891」造りは精巧では無く、オズワルドが通販で20ドル程度で購入したと言われている。
ウォーレン報告書によると、オズワルドはこのライフルで、パレード中の車に乗るJFKを狙い、6秒間に3発撃って命中させたことになる。

それが可能か検証したところ、特殊部隊の射撃の名手であっても、不可能であることが確認された。

一発撃つごとに弾を装填するライフルは、連射に向かず弾が詰まることも頻繁にある。例え撃つことが出来ても、標的に命中させるのは不可能だった。

そして、銃を使ったら必ず付着する硝煙反応も、オズワルドの手の平からしか検出されていない。

ライフルを撃ったなら、顔にも手首の方にも硝煙反応は着くはずなのに。

ウォーレン報告書③証拠写真の謎

オズワルドが犯人である証拠として提出された、8か月前にカルカノを手にしている写真。

しかしこの写真の信憑性が疑問視されている。

現代の写真鑑定の専門家が鑑定したところ、オズワルドの顔の影と、足の影が一致していないのだ。オズワルドの顔の影を見ると、太陽光は真上から差している事を示しているが、足元の影を見ると、太陽光は斜めから差している

明らかに矛盾しているが、証拠写真を偽装してまで、オズワルドの犯行としたかったという事なのか。

ウォーレン報告書④オズワルド犯行動機の謎

オズワルドの犯行動機として、「すべての権威に対する根深い反感」とウォーレン報告書には書かれているだけで、犯行動機として本質を突くものではない。

オズワルドは逮捕時「僕はやっていない、はめられたんだ」と言っているが、その真意は確かめられていない。

キューバのフィデル・カストロによるJFK暗殺説

オズワルドとキューバの関係

当時オズワルドは、アメリカと敵対していたキューバを、アメリカ国内で支援する支持団体「対キューバ公正委員会(カストロ政権擁護活動の母体団体)」に所属しており、その会員証まで残されている。

1978年9月13日~14日「下院暗殺調査委員会 承認喚問」に現れた、オズワルドの元妻・マリーナ・ポーターは、オズワルドについて、こう証言した。

「彼はその時期、革命的な気分になっていました。フィデル・カストロのためなら、喜んで何かをすると、考えていたようです。」

JFKが失敗に終わったキューバ・ピッグス湾事件

JFKが大統領に就任した当時は、アメリカをリーダーとする資本主義陣営と、旧ソ連(ロシア)を中心とする社会主義陣営との対立は、頂点にまで高まっていた。

その事を象徴する、1961年のベルリンの壁が造られた年でもあった。

JFK就任直前、社会主義陣営入りを果たしたキューバのカストロに対し、前大統領のアイゼン・ハワーは、ひそかにカストロ暗殺を計画。その計画を引き継いだJFKは、キューバ・ピッグス湾侵攻作戦を実行に移し、カストロ政権の転覆を狙うが、実行前にキューバ側に情報が漏洩し作戦は失敗

1000人以上の捕虜と、およそ100人の死者を出す、悲惨な結果に終わった。

この失敗の屈辱から、JFKはその後もカストロを敵視し、何度も暗殺計画を企てたという

一方、カストロも黙っていなかった。JFK暗殺の2ヵ月前、AP通信の記者にこう語っていた。

「キューバの首脳たちを暗殺する、テロリストの計画を支援するならば、自分たちが今度は、安全でなくなることを考えるべきだ。」

この言葉通り、暗殺を実行したとるすと、カストロに心酔していたオズワルドを利用して、暗殺を企てた可能性は否定できない。

長年、オズワルドとキューバの関係を調べていた、歴史家・作家であるガス・ルッソ氏はこう語っている。

キューバ諜報部員からの情報によると、キューバ側がオズワルドに接触。キューバの情報機関と金の取引をしていた証拠があります。

そしてオズワルドに、JFKを暗殺すればヒーローになるとけしかけ、オズワルド自身がJFK暗殺を企てたように、見せかけたのです。

幾度となく計画されたカストロ暗殺は、JFKが暗殺されてから、ぴたりと無くなっています。

10人のアメリカ大統領より、カストロは長く政権に君臨することができたのです。

旧ソ蓮・KGBによるJFK暗殺説

旧ソ連に亡命したオズワルド

若い頃、マルクス主義に傾倒し、共産思想を信奉していたというオズワルドは、1959年、2年10ヵ月勤務していたアメリカ海軍を脱退し、旧ソ連に亡命している。

オズワルドが滞在していたのは、KGBの諜報部員の訓練施設があったとされる、ベラルーシ首都ミンスク。

一説によれば、オズワルドは旧ソ連に破格の待遇で向かい入れられ、ミンスクの高級アパートに、無料で貸し与えられていたという。

(オズワルドが住んでいたミンスクの高級アパート)

2年後の1962年、オズワルドはアメリカに帰国。そのわずか、1年半後JFKの暗殺が起きた。

このことから、旧ソ連に亡命中、KGBによって暗殺の密命を受け実行したと疑われたオズワルドは、逮捕直後「ソビエトにいたから、はめられたんだ」と無実を訴えていた

元ロシア貴族、ジョージ・ドゥ・モーレンシルトの存在

オズワルドをアメリカのダラスに入れ、世話をしたというモーレンシルト。

ロシア人移民とのパイプ役を務めたとされ、スパイでは無いかと噂された人物だった。
1977年3月29日、下院暗殺調査委員会は、JFK暗殺について知っていることを話して欲しいとモーレンシルトに依頼したが、そのわずか3時間後、彼はピストルで自殺した

この自殺に疑問を感じているというのが、モーレンシルトに4日間に渡るインタビューを行っていた、作家のエドワード・エプスタイン氏。

モーレンシルトが自殺したのは、エプスタイン氏の2日のインタビューを終え、一旦家に戻ったタイミングだった。

エプスタイン氏によると、少なくとも、モーレンシルトはインタビューは熱心に受けており、死にたくなるような理由があるとは、全く思えないという。

CIA・産軍共同体によるJFK暗殺説

JFK大統領が中心となって、推し進めていたベトナム戦争からの撤退。

それは、軍部と軍需産業が結びつき、政府に大きな影響を及ぼしている、産軍共同体にとっては大きな痛手となる。

産軍共同体(軍産複合体):Military-industrial complex

産軍共同体の、様々な対外工作を行っていたとされるのが、CIA(アメリカ中央情報局)と言われている。

JFKは勝手に他国への侵略を行うCIAを敵視し、当時の長官アレン・ダレスを更迭するなど、強硬な態度を取り続けた。
CIAにとって、大統領は目の上のコブでだった。

元CIAの女性エージェントのマリタ・ロレンツが、大統領の暗殺計画に関わったと、衝撃的な証言を行っている。

1963年の11月、彼女はCIAの敏腕エージェントであるフランク・スタージスや他の仲間と共に、武器を運ぶためダラスへ向かった。
そしてJFK暗殺事件の後、スタージスから「仲間と運んだ武器を使ってケネディを殺った。だが誰にも分からないさ」という告白が聞いたという

マフィアによるJFK暗殺説

オズワルドを殺害したジャック・ルビーとマフィアの繋がり

JFK暗殺事件の実行犯として逮捕されたオズワルドを銃殺したのは、ジャック・ルビーというキャバレー経営者の男
JFK暗殺犯のオズワルドを殺害したジャック・ルビーその犯行動機は「ジャクリーン婦人の苦悩を和らげるため」ということだったが、その交友関係を洗い出すと、マフィアの影が浮かび上がってくる。

ルビーは幼い頃から、シカゴのユダヤ人街で育ち、マフィアの使い走りをしていた。彼が経営するストリップクラブには、常に大物マフィアが出入りしている。

そしてオズワルド暗殺直前の通話記録では、アメリカ中のマフィアたちの名前があったという。

マフィアがオズワルドを使ってJFKを暗殺させ、口封じにオズワルドは殺害されたのか。

下院暗殺調査委員会に召喚された、フロリダマフィアのボス、サント・トラフィカンテの部下、ホセ・アレマンはこう証言している。

「トラフィカンテは私に言いました。ケネディの再選は絶対にない。奴は殺されるんだ。」
フロリダマフィアのボス、サント・トラフィカンテの部下、ホセ・アレマン

JFKとマフィアの関係

マフィアによるJFK暗殺説が囁かれる理由は、JFKの父・ジョセフ・ケネディにあると言われている。

アイルランド移民だったジョセフが、アメリカで成功するための手段として選んだのが、アルカポネが暗躍した禁酒法の時代の酒の密売。これによって、ジョセフは大儲けをした。

そしてこの時生まれたのが、マフィアとの深い繋がりだった。

1929年10月24日の世界大恐慌の時には株を売り抜き、アメリカ有数の大財閥になったジョセフは、「金は手に入れた。後は権力だけ。」と、息子を大統領にしようと画策を始める。

下院から上院、そして民主党の大統領候補へと、父・ジョセフの金の力で、若いJFKは権力への最短コースを突き進む。

1960年共和党ニクソン氏と争った大統領選では、イリノイ州のシカゴでの票が、勝敗の鍵だと言われていた。

1票でも多い獲得が必須の、切羽詰まっていた選挙戦。そこでジョセフは、シカゴマフィアの大ボス、サム・ジアンカーナを票集めに利用する。

これがJFKの大統領選勝利に、大きく貢献

サム・ジアンカーナはアルカポネから縄張りを譲り受けたと言われる人物だった。サム・ジアンカーナ

大統領になってからも、JFKの周辺にはマフィアの影がちらついていた。

深い関係が噂されているマリリン・モンローは、マフィアとの繋がりを噂されていた、フランク・シナトラからの紹介だと言われているのだ。

JFKがマフィアに狙われた理由

マフィアとのJFKが深い繋がりが絶たれるきっかけとなったのが、JFKの弟で司法長官のロバート・ケネディによる、マフィアの撲滅だった。
ロバート・ケネディロバートは、シカゴマフィアの大ボス、サム・ジアンカーナを24時間のFBI監視下に置いた。

ニューオーリンズマフィアのボス、カルロス・マルチェロを身一つで中南米グアテマラに追放。

これらはマフィアからすれば、ケネディ家の裏切りに他ならなかった。

マルチェロは意味深な言葉を残している。

「イヌの尻尾を切り落としても、イヌは噛みつくのを止めない。だが、頭を切り落とせば、イヌは死ぬ」

JFK暗殺事件の追求開始と共に相次いだ不審死

1967年1月3日、ジャック・ルビーは真相究明の再審が始まる直前、獄中で突然死亡。死因はガンによる病死とのことだったが、真実は明らかになっていない。

死の直前、ルビーこう語っている。

「世界は永遠に真実を知ることはない。実際は何が起こったのか、そして私の真の動機についても。」

そして事件から10年後、議会は重い腰を上げてJFK暗殺の事件解決に乗り出した。

1975年上院情報活動調査特別委員会 設立
1976年下院暗殺調査特別委員会 設立

事件への関係が噂されていたマフィアたちが、次々と召喚され追及の手が及んだ途端、関係者たちは次々と不信死を遂げていく。

1975年7月20日、委員会に召喚されたサム・ジアンカーナは、自宅の地下室で銃殺

口封じであることを知らしめるように、後頭部に一発、口の周りに6発の銃弾が撃ち込まれていた。
1976年8月8日、ラスベガスマフィア、ジョン・ロゼリは、委員会でマフィアの関与を匂わせる証言をした直後、手脚をバラバラにされドラム缶に詰められて、フロリダの海岸に捨てられているのを発見された。

新たに浮上した副大統領リンドン・ジョンソンによるJFK暗殺説

明かされた鑑定不明の指紋の正体

暗殺事件直後、教科書ビルから検出された指紋は24個。

それらの指紋は、FBI捜査官やダラス市警警察官の指紋、そして暗殺者とされているオズワルドの指紋が確認された。

しかし1つだけ、鑑定不明の指紋があった。マルコム・ウォレスの指紋後に、その指紋を追い続けた鑑定士によって、ついに指紋と一致する男が見つかった。
それは、マルコム・ウォレス。

ウォレスはオズワルドと共に、教科書ビルの6Fにいたのだ。

殺人犯マルコム・ウォレスとリンドン・ジョンソンの繋がり

更にこの男は、1950年代にオースティンで起きた、ゴルフ場経営ダグ・キンザー殺害の犯人として、逮捕された経歴があったのだ。
マルコム・ウォレス

ウォレスはテキサス大学の在籍当時、自治会の会長を務めるエリート学生で、卒業後は、地元テキサスのある政治家のスタッフとして、働き始めていた。

逮捕後、ウォレスは警察官に「LBJのために働いている」と語っている

LBJというのは、当時はまだ上院議員だったリンドン・B・ジョンソン。ウォレスはジョンソンのスタッフとして、働いていたのだ。ウォレスが殺害したダグ・キンザーはプレイボーイで、当時はジョンソンの妹・ジョセファ・ジョンソンと不倫の仲だった。

上院議員選挙を控えていたジョンソンにとって、どんなスキャンダルも許されない状況だったが、ダグ・キンザーがいなくなったことで、スキャンダルの危機を脱し、上院の再選を果たした。ダグ・キンザーとジョセファ・ジョンソン
そしてウォレスの判決は、死刑か終身刑かと予想されたが、なぜか執行猶予付き禁錮5年という微罪で釈放

ウォレスについた弁護士は、ジョンソンの顧問弁護士だったジョン・コーファーだった。

ウォレスによる農務省調査官の殺害

1961年6月3日、テキサス州フランクリンの牧場で、農務省調査官ヘンリー・マーシャルの死体が見つかった。
農務省調査官 ヘンリー・マーシャルその時マーシャルは、地元の穀物業界からなりあがった実業家ビリー・ソル・エステスの、詐欺の調査をしていた。

ヘンリー・マーシャルの遺体には、脇腹にライフル弾が5発撃ち込まれており、状況は明らかに他殺を示していた。

しかし、遺体とライフル銃以外他に誰もいなかったことから、保安官は自殺として処理されてしまう。

当時、エステスと政界が癒着している噂があったが、事実エステスが政治家に賄賂を贈り、その見返りを受けていたという不正資金の情報を、マーシャルは掴んでいた。

そして賄賂の金額が大きかったのが、リンドン・ジョンソン

マーシャルの死から23年後の1984年、大陪審で審理がやり直され、エステスが証言台に立ち、マーシャル事件は改めて他殺と断定された。
フランスのテレビ局が、エステス本人に単独インタビューをしているが、そこでエステスは、「マルコム・ウォレスから、リンドン・ジョンソンの命令により、自分がマーシャルを殺害したと聞いた」と答えている。

大陪審はマルコム・ウォレスもリンドン・ジョンソンはすでに亡くなっていたため、ウォレスの犯行とし、これ以上の追求をすることはなかった。

リンドン・ジョンソンとテキサスの保守主義「ビッグオイル」

テキサスの政治家、リンドン・ジョンソンは地元にとってどんな政治家だったのか。

H.L・ハントやD.H・バード、クリント・マーチンソンらは、ビッグオイル in ビッグD(Dallas ダラス)と呼ばれ、テキサス州独自の保守主義を守り、そしてその莫大な資金で、ホワイトハウスへの発言力も持ち続けていた。

彼らが長年支持、利用し続けていたのが、リンドン・ジョンソンだった。
テキサスに忠誠を誓っていた、リンドン・ジョンソンは、テキサスに不利益な方向に向かえばそれを阻止するなど、常にテキサスに忠実な姿勢をとっていた。

しかし1960年の大統領選を前にした、民主党指名候補選びで、突然現れたJFKが、投票による指名争いでジョンソンに圧勝

もしJFKが立候補していなければ、間違いなくジョンソンが選ばれていただろう。

南部保守層の指示が必要だったJFKは、副大統領としてリンドン・ジョンソンを指名し、大統領選に挑んだ。

JFKに反対していたテキサス州の人々とビッグオイルだったが、リンドン・ジョンソンを副大統領にする取引を行ったという。

JFKと不仲だったリンドン・ジョンソン

野心家だったジョンソンは、テキサスのためにも大統領になることを諦めてはいなかった。

そんな時に、ジョンソンの足元で起きたスキャンダルが、ビリー・ソル・エステスによる補助金不正使用疑惑で、それを追求していたのが、農務省のヘンリー・マーシャルだったのだ。

ジョンソンにとって、大統領どころか副大統領の椅子まで脅かしかねないスキャンダル。

さらに、JFKとジョンソンの仲は非常に悪く、1964年の次の大統領選では、ジョンソンを副大統領から外そうと、目論んでいた

そのためには、ジョンソンのスキャンダルを見つけ出し、世間にさらす必要があった。そうすれば、問題なく退任を求められるからだ。

JFKは司法長官である弟のロバートに命じ、農務省を通じてエステスを調査させ、エステスを詐欺罪で追及しようとしていた矢先、マーシャルは殺害されてしまう。

マーシャルが殺害されたのは、ロバートへの調査報告をしにワシントンへ向かう2日前だった。

ジョンソンにとって、この事件は絶対に自殺として処理しなければならなかったのだ。

JFKによるジョンソンへの宣戦布告

1963年1月、JFKは石油業者に対する、優遇税制の廃止法案を提出

優遇税制とは、石油産出業者は収入の27.5%が優遇措置による控除されるという、これまでビッグオイルを潤してきた巨大なシステム。

これを撤廃することは、JFKからジョンソンへ対する、攻撃の切り札となるのだ。
1963年6月、JFKはテキサスの遊説を発表。その目的のひとつは「資金集め」。

そしてもう一つは、真っ二つに分かれていた民主党のジョンソン支持の保守派と、反対の革新派から、革新派を味方につけることだった。

テキサスのJFKに対する風当たりはすごかったが、JFKにとって遊説は避けて通れないものだった。

それを証明するかのように、当日のダラスには「国家反逆罪で告発する」と、張り紙が貼られていた。

ビッグDにより引き合わせられたマルコム・ウォレスとオズワルド

事件の中心人物となっている、容疑者のマルコム・ウォレスとオズワルド

まずマルコム・ウォレスがどこにいたのかというと、ダラス近郊の、本来なら働けないような、軍の機密に関わる「リング・レムコ・ボート社」で働いていた。

この会社のオーナーは、ビッグDの一人であるD.H・バード

そして彼は、JFK暗殺の犯行現場とされている、ダラスの教科書倉庫ビルのオーナーでもあった。

そして教科書倉庫ビルには、まもなくしてオズワルドが雇われている。

そしてついに、1963年11月22日午後12時30分、JFKはテキサス州ダラスのパレード中に暗殺されてしまう。

リンドン・ジョンソンが副大統領から大統領へ就任

パークランド病院へ運ばれたJFKの死亡が確認されると、間髪入れずリンドン・ジョンソンは大統領専用機エアフォースワンへ乗り込み、午後2時38分に大統領就任を誓った。

事件からわずか2時間後のことだった。
ジョンソン政権のもと、石油産業の優遇税制廃止法案は見送られ、ビッグオイルの権益は守られた。

ついに手に入れた大統領の座だったが、ジョンソンを待ち受けていたのは、ベトナム戦争と国民による反戦運動だった。

ジョンソンは次期大統領選への出馬はせず引退を表明。そして引退から4年後の1973年、心臓発作でこの世を去った。

マルコム・ウォレスの謎の死

一方、マルコム・ウォレスは1971年、車の事故を起こしテキサス州ピッツバーグの病院に緊急搬送されるが死亡。

ハイウェイパトロールの警察官の報告書によると、運転手は車を制御できず、車は柱に激突。しかし路面は凍結していたわけでもなく、他にこの事故に巻き込まれた者もいない。

そして些細なことでも、目撃者を見つけることができなかったという。

奇妙な一致!リンカーンとジョン・F・ケネディの共通点

奴隷解放の父と言われている、第16代アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーン。

JFKとリンカーンには多くの共通点があることも知られている。

これだけ共通点が揃うと、もはや偶然だとは思えないが、だとするとどんな力が及んでいるのだろう。

JFK暗殺事件後、4年間で27名が不審死を遂げている。

JFK暗殺について、衝撃の内容で波紋を投げかける書籍が、いくつも発売され、それらの書籍の著者には、ジョンソン顧問弁護士の一人として、インサイダー情報に触れてきた、バー・マクレランもいた。

当時、その衝撃の内容は、アメリカのテレビ番組でも放映されたが、「多くの人が、故人となっているのにフェアではない」と関係者の講義で、再放送は封印されたままとなっている。

アメリカのトランプ大統領は就任当初から、ケネディ大統領暗殺事件に関する機密文書について全面公開を求めているが、「情報源や外国政府に関する機密が含まれている」として、CIAやFBIは公開を反対。

トランプ大統領は、2011年10月まで全面公開判断を見送りとしたが、公開を諦めたわけではなさそうだ。